【金足農】嶋崎久美の時代 甲子園で「北国の春」歌って正座/毎週水曜連載〈5〉

金足農(秋田)を全国に名高い強豪校に育て上げたのは、元監督の嶋崎久美氏です。

1972年(昭47)に母校である金足農の監督に就任すると、1度の退任を挟み計34年間にわたって指導しました。現在の中泉一豊監督の恩師にもあたります。

「雑草軍団」と称するチームが、一体どのように強くなっていったのでしょうか? 

野球部の再建するための未来創造プロジェクトでもテーマとなった「金足農らしさとは?」を考える上でも重要になります。

時計の針を昭和に戻し、嶋崎監督の時代を振り返ります。

高校野球

◆嶋崎久美(しまざき・ひさみ)1948年(昭23)4月5日、秋田・五城目町生まれ。嶋崎が中1の時に長兄を不慮の事故で亡くし、実家の農家を継ぐために金足農へ進学。現役時代は捕手で、甲子園出場はかなわなかった。1967年に卒業すると秋田相互銀行(現北都銀行)に勤務。1972年6月から母校監督に就任。1度の退任を挟み計34年間で春夏合わせて7度の甲子園に出場した。2012年から16年までノースアジア大の監督も務めた。

夜中にラジオ大音量

金足農が初めて甲子園に出たのは、1984年(昭59)のセンバツだった。

3月23日の練習で甲子園の土を踏んだ。当時監督の嶋崎久美にとっても、就任13年目でようやくたどり着いた聖地だった。

ここで嶋崎は、選手に命じた。

「歌をうたえ」

エース水沢博文はニック・ニューサの「サチコ」をうたった。母の名前と同じヒット曲を選んだのだという。大山等三塁手は「別れても好きな人」、そのほかに「北国の春」をうたう選手もいた。突然の歌謡ショーに大会関係者は驚くばかりだった。

嶋崎はそれまでも、遠征先の駅などで突然「度胸試しだ」といって選手に歌をうたわせていた。

さらに、1回戦の新津(新潟)では、試合前のシートノックで残り時間が1分になると、選手が各ポジションで正座した。

風変わりな甲子園デビューだった。

1984年3月23日、センバツ初出場の金足農ナインは甲子園練習で整列して校歌をうたう

1984年3月23日、センバツ初出場の金足農ナインは甲子園練習で整列して校歌をうたう

嶋崎が、ちょうど40年前を振り返る。

「いろんなことをやった理由は、やっぱり平常心ですね。金足農のグラウンドと同じように、あの素晴らしい甲子園でプレーしてほしかった。その前の合宿では、夜中にラジオを大音量で流したまま寝かせたりしたんですよ。甲子園の大歓声の中でも平然としてられるようにって。テレビは夜中に終わっちゃうけど、ラジオは朝まで続いているから」

歌謡曲や正座には、もう1つの効果も狙っていた。

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編集委員

飯島智則Tomonori iijima

Kanagawa

1969年(昭44)生まれ。横浜出身。
93年に入社し、プロ野球の横浜(現DeNA)、巨人、大リーグ、NPBなどを担当した。著書「松井秀喜 メジャーにかがやく55番」「イップスは治る!」「イップスの乗り越え方」(企画構成)。
日本イップス協会認定トレーナー、日本スポーツマンシップ協会認定コーチ、スポーツ医学検定2級。流通経大の「ジャーナリスト講座」で学生の指導もしている。