苦境をどう捉えるのか-。
陸上女子走り幅跳びの秦澄美鈴(27=シバタ工業)は、1つの視座を持ち合わせています。
昨季は日本選手権で3連覇を達成。アジア選手権(タイ・バンコク)では6メートル97を跳び、従来の日本記録を17年ぶりに更新しました。
今夏のパリオリンピック(五輪)の参加標準記録(6メートル86)を突破しましたが、初出場した9月のダイヤモンドリーグ(DL)厦門(アモイ)大会では本来の力を発揮できず、最下位に沈みました。
どのように結果と向き合って、パリ五輪へ突き進むのか。不定期の陸上コラム「Road to Paris-パリへの道のり-」でその思いに迫りました。【取材・構成=藤塚大輔】
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■「帰りたい…」直近3年でワーストの結果
2023年9月2日。中国南西部の厦門(アモイ)で開かれたダイヤモンドリーグ(DL)。
秦は陸上競技場の隅に座りこんでいた。
「結果も記録も散々だったので」
1回目の試技をファウルで終えると、2回目は6メートル04。3回目も6メートル20にとどまり、上位8人による4回目以降の試技へ進めなかった。
自己ベストとは77センチ差。21年以降ではワーストの結果だった。
「本当は3回目の試技が終わった後に、『帰りたい』って言ったんです」
そう訴えたが、スタッフに止められた。その場を離れたくなるほどの感情にさいなまれていた。
「ここ数年でもいつ以来だろうという結果だったので。悲しい、悔しい、むなしい。いろいろな感情があったと思います」
目の前では8人のジャンパーたちが試技へ臨んでいた。膝を抱え、その光景をぼんやりと見つめていた。
ようやくたどり着いたDLだった。
「ずっと出たかった」と憧れていた舞台への出場が決まると、急いでビザを取得した。シーズンでは5カ国目となる海外での大会。スーツケースにはレトルトのお米も詰め込み、「少しずつ慣れてきた」という国際大会へと向かった。体の疲労はたまっていたが「このメンバーで戦っていく」と覚悟もあった。
そんな決意が、打ち砕かれたような気がした。
■「トータルではうまくいっている」
10人中最下位に終わった初舞台。
ただ、その時間を思い返す声は、沈んではいなかった。むしろ、受け入れて、糧にしようと前を向いていた。
「今年はズルズルと引きずることがなくなったと思います。確かに大きな舞台ではうまくいきませんでしたが、トータルで考えるとどうなのかという捉え方をするようになりました」
世界選手権では2大会連続で代表入りしたが、2度目の挑戦でも決勝進出を逃した。厦門でも辛酸をなめた。
その1年を「トータルではうまくいっている」と表現した。
次のシーズンを見据えた上での言葉。そこに1年前からの進歩があった。
「オレゴンの後と比べると、成長したのかなと思います」
■自室に閉じこもった初の世界選手権後
東京五輪の翌シーズンとなった2022年。
秦は6メートル50以上をコンスタントに残せるようになり、初めて世界選手権への切符を手にした。
決勝進出を目指し、米国オレゴン州へと乗りこんだものの、6メートル39で予選敗退。シーズンワーストにとどまり、目標には届かなかった。
思い描いた姿と結果との間にギャップを感じた。帰国後は自室に閉じこもった。
「10日間くらいだったと思います。その間は練習もしなかったです」
何も手につかなかった。スマートフォンに届くメッセージにも、あまり返信する気にならなかった。
「試合で形にならなくて、なかなか立ち直ることができませんでした」
1つのことを考え込んでしまう性分。しばらくして練習に復帰こそしたが、悶々と時間は過ぎていった。
浮上のきっかけをつかんだのは、オレゴン大会から2カ月後。全日本実業団対抗陸上でのジャンプだった。
■「半分開き直って…」苦境を打開するヒント
9月下旬。岐阜・メモリアルセンター長良川競技場で開かれた大会。
そこで当時の自己ベストとなる6メートル67をマークした。
全ての試技で1度もファウルがなく、3回目以降は全てで6メートル50を上回った。
「ちょうどストレスが重なっていた時期だったんですけど、半分開き直ってどうにでもなれって気持ちで挑んだら、意外と自己ベストを出すことができました。久々に楽しく跳ぶことができた大会でした」
振り返る声は自然と弾む。
胸に宿ったのは高揚感だけではない。
それまでは不足にばかり目がいきがちだったが、フラットに物事を見るためのヒントを得たような気がした。
「できなかったことではなく、例えば一年を通じてトータルではどうなのかを大切にするようになりました」
競技への新たな視座を備えていく上でも、1つの転換点となった。
■「メンブレタイムおわり」SNSにつづった意図
あれから1年。
厦門で突き付けられた最下位という結果は、まさに「トータルではどうなのか」という視点が問われた瞬間でもあった。
初めはその場に座り込んでいたが、やがて立ち上がった。競技が終わると、ドーピング室へと向かった。
検査までの待ち時間。坂井裕司コーチへと電話をかけた。
まずは自分の感情を素直に伝えた。受話器の向こうで、じっと聴いてくれていた。
「内容はあまり覚えていない」と回顧するが、コーチは励ましてくれていた。
5分ほどで電話は終わった。
スマホでX(旧ツイッター)のアプリを開く。
「さすがに一旦メンブレ。」とだけつづった。
ただそれは、実際にひどくメンタルブレイクしたわけではなく、あくまで「自分の気持ちとして投稿しよう」というものだった。
それから3時間。次は絵文字も「!」も添え、吹っ切れた思いを文字にした。
「メンブレタイムおわり は?!ってぐらい跳ばれへんかったし本気でおセンチモードに入る寸前やったけど、私の新しいステージも始まったばかり!! 世界への挑戦も始まったばかり! 結果が出るまで諦めない」
それは心身を自分なりにコントロールしようとした証(あかし)だった。
帰国後も部屋にふさがるようなことはなかった。
坂井コーチと思いをすり合わせ、新たなアップの方法やファウルにならないような助走法を話し合うこともできた。
「落ち込むのではなく、どうすれば結果を出せるのか、どうすれば乗り越えていけるのかを考えていけたと思います。次に進むための具体的な案も出てきました」
1カ月後のアジア大会では6メートル48の4位で表彰台入りを逃したが、決して悲観はしていない。
あくまでトータルで判断するという観念が、心に安定をもたらしている。
■変わる“肩書き”も「気にならない」
相対的な視点があるからこそ、“肩書き”の変化にもあまり意識を置かない。
以前は所属先のシバタ工業の製品のイメージモデルを務めたこともあり、「モデルジャンパー」との枕詞がつけられたこともあった。
「あんまり…と思ったこともありましたが、自分にはそれしかつける言葉がないんだなと思っていました」
そのキャッチコピーが付けられたのは、実力不足ゆえだと受け止めていた。
ただ、パリ五輪シーズンを迎えた今、その肩書きも変わりつつある。
昨夏のアジア選手権で6メートル97を跳び、17年ぶりに日本記録を更新した。
枕詞は「日本記録保持者の秦」となりつつあるが、当人は「そこまで気にならない」と言う。
初の五輪出場が懸かる新シーズンへも、具体的な数字面での目標は掲げていない。
「すでにパリ五輪の参加標準記録(6メートル86)も超えているので、日本選手権できっちり、自分の跳躍を発揮できるように。前半の3本で力を出せるようにしたいです」
悠然と口にする姿が、昨年7月のアジア選手権への出国前の言葉とも重なる。
「自分の心の中では全ての試合を平等に考えられればと思っています。そこで出た結果次第で次への対策を考えればいいので、日本記録というのはいったん置いて、まずは自分の跳躍に集中することができればと思っています」
トータルではうまくいっている。全ての試合を平等に。
バンコクでの日本新記録も、厦門での結果も、等しく力に変えていく。
◆秦澄美鈴(はた・すみれ) 1996年(平8)5月4日、大阪府八尾市生まれ。大阪府立山本高校で陸上競技を始め、武庫川女子大2年時には日本学生陸上競技対校選手権(日本インカレ)2位。4年時には走り幅跳びで同インカレ優勝。19年4月からシバタ工業に入社。同年6月の日本選手権で優勝を飾り、21年から同選手権で3連覇中。22年から2大会連続世界選手権代表。23年7月のアジア選手権では日本新記録となる6メートル97で優勝。名前の「澄美鈴」は、保育士の母が出産前にすみれ組を担任していたことが由来。血液型O。