今年は日本人初のメジャーリーガー誕生から60年の節目の年である。
1964年9月1日、ニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムで、試合直前にメジャー登録されたサンフランシスコ・ジャイアンツの村上雅則投手が、メッツ4点リードで迎えた8回裏に登板。1回を1安打2三振の無失点に抑えた。まだ20歳だった。
通訳はいなかった。「英語は全然できなかったから、グラウンドで和英辞典を持って他の選手に話しかけてね。そのうち会話ができるようになり、意外と早くうち解けました」。
1月22日、都内で行われた第14回日本スポーツ学会大賞の授賞式に出席した村上氏が、当時を回想した。気さくで、外向的な性格も水に合ったのだろう。“マッシー”の愛称で、他球団の選手からも親しまれた。
翌65年夏、ピッツバーグの球場での練習後、ロッカールームの外で涼んでいたら「ヘイ、マッシー」と声をかけられた。「誰? と聞いたら、“ロベルト・クレメンテだ”と。“ステイ・ヒヤー”と言って、ロッカーに走って色紙を持ってきてサインしてもらいました」(村上氏)。
ピッツバーグ・パイレーツの外野手でプエルトリコ出身のクレメンテは、首位打者4度、3000本安打を達成した名選手。現役時代からボランティア活動に熱心だった。72年12月31日、ニカラグア大地震の被災地へ支援物資を輸送するために、自らチャーターした飛行機が離陸直後に海へ墜落。帰らぬ人となった。
翌年、メジャーリーグ機構は社会貢献活動に尽力した選手を表彰していた『コミッショナー賞』の名称を『ロベルト・クレメンテ賞』にあらためた。
今回、日本スポーツ学会大賞を村上氏が受賞した最大の理由は、約30年に及ぶ社会貢献活動だった。毎年、チャリティーゴルフを主催して、スペシャルオリンピックス(知的障害のある人たちの競技会)への寄付や、『国連難民サポーター』として国連UNHCR協会への寄付をはじめ、被災地支援などの慈善活動も続けてきた。
受賞後、村上氏は「ロッカールームの外でクレメンテと立ち話をしたときの『もし大きくなったら(有名選手になったら)ボランティア活動をやってくれたら』という彼の言葉が耳に残っていた」と明かした。いつしか慈善活動は毎年の恒例のライフワークになった。彼は『日本人メジャーリーガー第1号』という勲章以上に大切なものを、米国から持ち帰ったのだろう。
以前は日本での慈善活動に「偉そう」「目立ちたがり屋」と陰口も多かった。キリスト教によるチャリティーが盛んで、寄付行為が根付いている欧米と、日本の意識の違いを肌で感じていた。変化を実感したのは11年の東日本大震災。韓国人初のメジャーリーガーで、当時オリックスに所属していたの朴賛浩投手(パク・チャンホ)が、被災5日後に1000万円の寄付を発表すると、日本のアスリートも次々と声を上げた。
今年元日の能登半島地震発生後、ドジャースの大谷翔平、パドレスのダルビッシュ有らメジャーリーガーから、サッカーの富安健洋、ボクシングの那須川天心ら、スポーツ界全体に支援の輪が広がっている。
「メジャーのトッププレーヤーは億単位の大金を何に使えばいいかを教えてくれる。慈善活動は当たり前なんです。そんな意識を日本の選手も持つようになってきた」と村上氏。5月に80歳を迎える日本人初のメジャーリーガーは、あのクレメンテのサインを額に入れて、今も都内の自宅に大切に飾っている。【首藤正徳】